(以下原文)

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  清水三十六少年が西前小学校の四年生に進級してほどなくの明治四十五年六月二日。晩春の日差しのまぶしく照りつける日のことだったという。横浜市久保町塩田五十番地の、清水家の隣りに新しく越してきた家族があった。清水家は二戸だての長屋に住んでいて、その隣りが空き家になっていたのである。春の終わりだというのに、一家五人の転居者たちが、揃って冬ものの綿入れの着物をきているのが、ちょっと異様な感じだった。

  新しい隣人一家の主は添田辰五郎といい、北海道での開拓事業に失敗して、まだ肌寒い蝦夷地から船で横浜港へ引き揚げてきたのである。横浜と樺太間の航路の貨物船の事務長をやっていた辰五郎の弟由五郎が、久保町とは目と鼻の戸部町に住んでいて、手回しよく、塩田の空き家を見つけてくれていたのに入居したのであった。

  添田辰五郎には五児があり、長男貞吉、次男英次、その下に三人の娘がい、一番の末っ子をアサと云った。このころ長子の貞吉と次男の英次はすでに成人していて、貞吉は東京・木挽町の 「きねや」質店に、英次は八丁堀の「きねや」質店に住み込んでいた。間もなく辰五郎は由五郎の世話で横浜市瓦斯局に就職し、アサは西前小学校一学年に転入した。

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  清水逸太郎家の隣りの住人だった添田辰五郎の長男貞吉は、明治四十年代から東京・木挽町六丁目、三十間堀そばの山本周五郎商店「きねや」につとめ、当時はすでに二番番頭にすすんでいた。

  貞吉は、横浜の十全病院に入院した病身の母を見舞うために、しばしば東京から横浜へ帰って、 きた。そんな貞吉に同情した店主の山本周五郎は、東京・横浜間の汽車の回数券を買い与えて、 憂いを共にする人格者だったという。添田貞吉は、自分の勤めている店主の人柄について、つねに清水逸太郎夫妻に語って徳としていたものらしい。たまたま山本商店では少年店員を求めており、貞吉はその旨を逸太郎夫妻に話してみた。

  夫婦は、店主がそんな方ならといい、三十六に「奉公に出る気持ちがあるか」と訊くと、「上」 の学校へ通うのをもし許してくれるならば」と少年はこたえた。

  山本質店主は、夜間の正則英語学校へいれてやろうと応諾したので、三十六少年の「きねや」 奉公はあんがいすらすらと決まったのだそうである。一里でも一町でも、父親の手元から離れて暮らしたい心境にあった三十六少年にとっても、貞吉の勧誘は渡りに舟だったのかもしれない。

  だが、「きねや」勤めにあたって、父の逸太郎は、三十六少年の給銀のなん年か分かを山本店主から前借したいとの条件を出し、この件も店主が聞き入れたうえでの徒弟奉公だったことを、 小学校を出たばかりの三十六少年が知る由もなかった。